シャトー・ディッサンの歴史は、何よりもまず伝達と継承の長い物語です。相続や結婚によって、シャトーは複数の所有者の手を経ることになりました。そして全員がそれぞれの方法で、ワイナリーの名声に貢献し、比類ない個性を築き上げてきたのです。12世紀の昔の封地だったこの所有地は、当時ラ・モットゥ・カントナックと呼ばれていました。相続人の女性がテオボンという名前の領主と結婚したことで、マノワール・テオボンになりました。
その後3世紀近くにわたり、ノワイヤン家、メラック家、セギュール家、サリニャック家、ドゥ・ラ・ヴェルニュ家、エスコデカ・ドゥ・ボワッス家など、このシャトーの所有者は次々に変わりました。そして1575年以降は、エスノー家が5世代にわたって所有し、シャトーの名前を自らの名を縮めた名称に変更しました。こうしてシャトー・ディッサンが誕生したのです。
シャトー・ディッサンの名は、1855年の有名なグラン・クリュ格付けによって第3級に選ばれる前から知られていました。ディッサンのワインの名声は、12世紀末に遡ります。なぜならば、1152年5月18日、アリエノール・ダキテーヌとアンリ・プランタジュネ(後のイングランド国王ヘンリー2世)の結婚式で、シャトー・ディッサンのワインが振る舞われたとされているからです。
さらには、カスティヨンの戦いの直後、敗走するイングランド人たちは、当時既に有名だったシャトー・ディッサンの醸造庫を空にすることを忘れなかったと言われています。それ以来、このワイナリーは時代を超えて威光を放ち続けました。1723年には、英国皇太子のソムリエ、ヘンリー・パウエルによって認められました。
続いて1776年、シャトー・ディッサンは、ワイン仲買の始祖ラバディのリストに加わりました。1787年には、後のアメリカ大統領トーマス・ジェファーソンのかの有名なボルドーのワイナリーセレクションの中に含まれました。そして19世紀末には、オーストリア宮廷にもたらされたシャトー・
ディッサンは、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世のお気に入りのワインだったとされています。シャトーの入口上の切石に刻まれているワイナリーのモットー「Regum mensis aris que deorum」(国王の食卓と神の祭壇のために)は、この皇帝の言葉です。
所有者であったフォワ・ドゥ・カンダル家が、フランス革命で手放さざるをえなくなったシャトー・ディッサンは、ワイナリーの命運に常に深くかかわった複数の人々の手を経ることになりました。1824年には、ジャン=バティスト・デュリュックが所有者になり、ワイナリーをよりよいものにするために数多くの工事を行った後、ブランシー家に売却しました。1866年、ギュスタヴ・ロワがシャトー・ディッサンの経営者になり、最初の重力式醸造庫を建造させ、フィロキセラ禍で打撃を受けたぶどうの植え替えに特に力を注ぎました。
不運なことに両大戦間には、ワイナリーは放置されましたが、やがて1945年に所有者となったクルーズ家の手腕により、見事な復興を遂げることになりました。リオネル・クルーズの指揮の下、シャトーは修復され、設備は近代化され、ぶどうの木は植え替えられました。1998年以降は、息子のエマニュエル・クルーズが着手した取り組みのおかげで、シャトー・ディッサンのワインはかつてないほどにテロワールの真の魅力を映し出すものになっています。
2012年、サン・テステフのシャトー・リリアン・ラドゥイとポイヤックのシャトー・ペデスクローのオーナーでもあるフランソワーズ&ジャッキー・ロレンツィ夫妻が、クルーズ家と共に経営に加わりました。このように異なる時代の人々が、忍耐と情熱と勇気を持って、シャトー・ディッサンの復興に力を尽くしたおかげで、シャトー・ディッサンはその名声を取り戻すことができたのです。